まんまんルサンチマン

ないしょの話

やぁや

君より沢山顔合わせるお客さんがいるなんてむりっ!って身体が思ってるのかわからないけど、お店に行かなきゃな日に限って頭痛が酷くてうごけなくなっちゃうんだよね、最近

どんどん沢山求めてしまう自分が怖くて気持ち悪い

店で君を待っていた時の私の方が清く正しく君を好きだった 今の私めちゃくちゃ我儘で汚くてやだ

 

だからまたお客さんに戻ってくれない?💖

 

わたし、やっぱりみんなのえりなちゃんでいたいし…… 今のままじゃお客さんたちに悪いなって思うし……😢

 

ホントは君に飼われたかったし人生まるごと買われたかったんだけどな まあ、えりなにはそこまでの価値がなかったっぽい〜🎶

 

でもいいもん、休みの度に会いに来てくれるお客さんいるし、遠くから会いに来てくれるお客さんもいるし、わざわざ休み取って会いに来てくれるお客さんもいるんだもん

えりなに会いに来てくれるお客さんがいなくなったら、えりなの価値って無くなっちゃうのかにゃ……

 

君のこと好きなので、君の重荷になりたくないし、君にとって都合のいい時だけ君の恋人になるから、その時はまたお店に遊びに来てね( ˙³˙ )ノ💖

って言ったら君は悲しい?嬉しい?

今夜だけは……

つばきファクトリーの「今夜だけ浮かれたかった」について、2ちゃんねるで「付き合ってすらないのに帰りたくないとか言われても困るやろ」と書いてあったんだけど、そういうものなの?

かわいくなってから、人生で1度も袖にされたことがないからわかんなぁい

(かわいくなる前の人生は忘れたから知らない♡)

と思っていたんだけど、この前袖にされてしまったので、シクシク泣いています

もちろん私の都合の押しつけだって、わかってるから、ちゃんと引いたし、ちゃんと帰ったよ……

ただギュッてされたかっただけなんだけどなぁ

あまりにもギュッてしてくれなかったら、してくれる人を探そうかなって、思っちゃうよねぇ〜

無い者から更に取立てるのは神様だけだからね♡

にねんせい

子宮の奥の奥のところにあたしの魂があると思うんだよね、だから性行為してると魂に直接触れられてるみたいで、人倫の交わりを感じるから好き みたいなことをレヴィナスの授業のリアペで書いたら道徳哲学の先生にまじで呆れられたのを思い出した

イグナチオ教会で他大の友達の陰茎を露出させて「実践神学W(ボロン」とか言って爆笑していた頃のあかるい私が、私は好きだったな

首都大の森で遭難した時に「とりあえずやっとく?」と青姦して蜘蛛の巣まみれになって最後池に落ちた時とか

駒場の前田邸の森の奥で青姦して「御先祖様すまんな」「まあ利家も子沢山だし許してくれるよ〜」とか言っていた時とか

湿っぽいかなしみとか無しに性行為していた頃の自分が好きだった

想起

実際に目の前になくても あるものをきっかけとしてその奥にあるものを見出すことってあるじゃないですか

行為の時の感触が身体に残っていて そこから貴方を想起することができるので 最近、店でとてもよい接客ができています 

会えない時間も含めて貴方が好きです 会えない時間に、あなたを想っている時がとても好きなのです 

 

抱いて欲しかったな

抱きしめて欲しかったしくっつきたかったし

耳元で空言のように好きだと繰り返し囁いて欲しかった

 

君の「顔」を知りたい

君の実存はどこにあるの 何を以て君を成しているの

君の魂は何色をしているの

全部向かい合わせにならないと分からないよ

 

私は君の好きなこと何も知らないから

君の好きなこと全部教えて その上で君の好きな私になりたい それが本当の私でなかったとしても

 

という訳で次会った時は抱かせてください

関係性

人と新たに関係性築くのってめちゃくちゃ難しくないですか?私は難し過ぎて禿げそうです。

悲しいことに粘膜接触をもってでしか人と関係性が築けないみたいな所があります。

 

お茶して笑いあって喧嘩する当たり前の青春に恋してた、なんて言うけど。それ楽しいか?

私が楽しくてもそれ、相手が楽しいか?

相手に申し訳なくて、相手を喜ばせようと性接待してしまいます。

性接待でも喜んでくれてるかはわからんけど、まあ、私と会話するよりは楽しいでしょ、多分。

 

仲の良い友達がみんな既セクだった。既セクからくらいしか気にかけて貰えない人生ーー。

(同性の友達が少ないのは地雷)

(同性の友達もほとんど既セク)

 

恋愛って、粘膜接触に至るまでの過程に過ぎないらしいので、粘膜接触してしまった人とはもう関係性築けないよね、オワリ、お疲れ様でした〜。

 

「さっちゃんと初めて寝たからBAGUSは僕にとって特別な場所です」という告白を受けて、こういう感覚があるのか、と驚いた。と同時にそういう感覚を持ちえないから公園や森や車の中で寝てしまうのだろうなと思った。

 

閨が特別な場所だという感覚を初めて感じたのは、小学生の時に『天璋院篤姫』の中で夜伽の時間のために篤姫が下女に巻物で講習を受けている場面を読んだときであった。中学生になって古典文学に触れ、閨を共にすることを「契る」と表現する美しい日本語と出会った。かつての私は閨に対して幻想を抱いていたのだ。太田静子のように。

 

愛する人と共寝をしたいのでコロナウイルスとかいう全く詩的ではない病原菌が死に絶えて欲しい。ペストは人が多く死んだから文学性があったが、日本におけるコロナは殆ど死なないのにしみったれた自粛警察が戦時中のような監視社会を敷いていて気持ち悪いです。お気持ち表明。私の若い夜をそんなくだらない事で害されるのが不快という、蓮葉な女の戯言でした。