まんまんルサンチマン

ないしょの話

性倫理

人って性倫理が厳格でない人を嫌う傾向があるじゃないですか。まあ動物という存在の限界として、命のバトン(大爆笑)を繋ぐためには性病は大敵ですしそのリスク回避のためには生娘を好むというのは理解は出来るのですが、不愉快ですね。

 

私の初体験は強姦によるものだったのですが、処女厨の人間に汚物扱いされていたたまれなくなっていた18の頃の自分を抱きしめてあげられるのは私だけだと思って、強い女として生きてきました。その為に沢山の男を犯し、屈服させました。

 

「さっちゃんは悪くないよ。さっちゃんが過去にどんな汚い男に何をされていたとしても、それでさっちゃんの価値は下がらないよ」と、言う変わった人間がいました。私が森で友達の陰茎を口に含まされ、男女の友情が成立しないことに泣いていたことも、昔の恋人に脱肛させられるほど暴力を振るわれたことも、祖父に悪戯をされたことも、全部肯定して貰えた気がしました。

 

クズの本懐』で茜さんが鐘井先生を選んだのは「浮気するのを辞めるのを辞めなくていいですよ」という言葉だった。私もこの変わった人を選ぼうと思いました。元ビッチだしね。

性考

他者の目からどんなに満たされているように見えても、根底にある「寂しい」という感情を消せないから、人と一糸まとわぬ姿で交わることで感ずるあたたかさを求め続けて生きているようです。

 

私の価値観は世間で正しいとされているものと隔たっていて、そのことでジャッジメントをされ続けてしまいます。淫蕩だから世間で良しとされているかどうかよりも自分が心地いいと感じるかどうかでしか価値判断ができず、良いと言われるものを当てがわれても満足出来なかった時、人々は私を傲慢だと評価するのです。

 

男根を舐めた時に出る分泌物だけが私のことを肯定してくれるし、私のことを見て男根を屹立させてくれて、射精してくれることで私の存在に尊厳が与えられるように思うんですよね。

 

粘膜接触をやめようと思って、性具を購入したのですが、私が求めていたのは女性が肉体的に欠損している膣を物理的に埋めてくれるものではなく、人との交わりでした。でも私はもう性交を介さず人と関わる方法がわかりません。レヴィナスを読んでも、何も学ぶことができませんでした。寂しいです。

 

 

 

 

性交渉

なぜ自分が性交渉に囚われているのか考えてみることで、そこから解放されたいと願い、今日はそのことについて書くことにしました。

 

初めて性交渉をした相手は妹でした。妹は泣いていました。私も泣いていました。朝方、何故こんなに悲しいのに生きていないといけないのかと泣く私を妹は慰めてくれていたのです。次の相手は祖父でした。祖父は私の胸が大きくなることを願い胸を触ってくれました。祖父はキリスト者の端くれでしたから、私が姦通は働きたくないことを認め挿入はしませんでした。

 

中高は女子校だったので、はじめのうちは自分と周囲の処女性は清く正しいものだと思いながら生きていました。学年が上がっていったとき、ある女子に「あなたは膜があるから私より下である。高校生にもなって膜があって恥ずかしくないのか」と言われました。その時、周りの女の子のように毅然と「婚前交渉をする方が誤りです。」と対応すればよかったのに、私はその言葉で傷つきました。誰かに抱いてもらわねばならぬ。処女のまま死んだらどうしよう。そういった思いに囚われました。教師に相談したところ「君は処女のイデアのような格好をして清いのがいいところだ。君の処女を私が買ったことにしよう。大丈夫無利子無担保で貸したことにするから。」と通帳を渡されました。通帳ではなく男根が欲しかった私はブランコに乗って大泣きをしたのを覚えています。

 

高校卒業後、大学に行けなかった私は、ある日呼び出された友人の家で強姦されました。当時の私は知らなかったことでしたが、人の家に入るということは性的同意を示すようです。私は自分の重荷がなくなってよかった、と思う反面、もう神様に愛されることはないんだな、ととても悲しくなりました。

 

恋人ができて、恋人と寝るとなり粘膜接触をしてしまう自分を許さなかったので、粘膜接触をしないと死んでしまいそうな、精神に疾患がある人とだけ付き合ったし、粘膜接触をしないと死ぬ!と騒いでいる人とだけ寝ました。気付いたら私が粘膜接触をしないと死ぬ人となっていました。皮肉な話です。

 

私は結局、自分のために生きることができなかった。自分のためにお洒落をしたり毛繕いをしたりすることができなかった。自分に興味がなさすぎて、寝る相手の要望に応えることでなんとか自分のまわりを整えることができただけの廃人でした。

 

そして私は人の言葉、自分の言葉を信頼できなかったから、行為の中での「気持ちいい」という言葉以外この世の中で真実を語る言葉はないように感じ、射精を受け止める以外に自分が他者を愛することができないと考えました。私は誰かに抱いてもらわないと生きていかれないです。

自己紹介

そろそろ、生きるのをやめなければならぬと思った。自己矛盾が苦しいのである。

 

私は人のため、人を喜ばせるために何かをすることが大好きで、昔は牧師になろうと思っていたくらい信心深くて「良い子」であった。いや、良い子のフリをするのが上手だっただけだ。私は良い子でもなんでもなく、自分に好意を持ったオッさんをパトロンにし、自分のことを好きになってくれた人から搾取して何も返さなかった。それでも処女のうちは、神様の前では正しく生きていたが、今では神を否定し、あまつさえ自分が神になれると考えている

 

私はビッチでありながら、性的に放埒である自分を受け入れることができなかった。だから誰かを救うために、でない限り人と寝るのをやめようとした。でも寝て救われる人なんていないし、それこそ太宰治『葉』の夏の着物のような存在にすぎない自分自身の耐えきれない存在の軽さに傷ついてしまうこととなった。

 

みんなの肉便器になったらみんなは私を好きになってくれると思っていた。少なくとも私を虐げることはやめると思っていた。信頼は罪なりや?私はもう生きていたくないです 。死ぬまでに自分の思想をまとめて書いて、誰かに読んでほしいからブログを始めました。